1. HOME
  2. 書評
  3. ロベルト・ボラーニョ「2666」書評 小説を怪物にする死と詩情と俗悪さ

ロベルト・ボラーニョ「2666」書評 小説を怪物にする死と詩情と俗悪さ

評者: 小野正嗣 / 朝⽇新聞掲載:2012年11月18日
2666 著者:ロベルト・ボラーニョ 出版社:白水社 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784560092613
発売⽇: 2012/10/01
サイズ: 22cm/868p

2666 [著]ロベルト・ボラーニョ

 〈寂寞(せきばく)〉ではなく、〈寂漠〉という文字が思い浮かんだ。寂しさの砂漠あるいは砂漠の孤独。チリに生まれ、青年期に母国の軍事クーデターに遭遇、メキシコ、フランス、スペインを渡り歩き、50歳で死んだボラーニョのこの遺作は、星の明滅のような含み笑いで我々をくすぐりつつも、最後には砂塵(さじん)と淡い悲しみでかすむ広大な暮景のなかに置き去りにする。
 砂漠の中心には、アルチンボルディという長身のドイツ人作家がいる。よく似た名のイタリアの画家アルチンボルドが描いた、草花や果実からなるあの摩訶不思議(まかふしぎ)な人物画と同様、このドイツ人作家は、つまり5部構成のこの小説はまったく得体(えたい)が知れない。
 第1部はこの作家に魅入られたヨーロッパ4カ国の批評家たちの物語である。国際会議で出会うなか、この4人(女1人男3人)は、三角関係プラス1と言うべき奇妙な恋愛関係にはまり込む。目撃情報をもとに敬愛する作家を探してメキシコ北部の街サンタテレサに赴いた3人の男女は、意外な恋の結末を迎えることになる。
 第2部の主人公は、批評家たちを迎え入れたサンタテレサ大学のチリ出身で50歳(!)の哲学教授だ。妻に逃げられ、娘と暮らす彼は、まるで街を囲繞(いじょう)する砂漠から、つまり彼の内奥の孤独から届いてくるような不思議な声にたえず取り憑(つ)かれ、読む我々までもが茫漠(ぼうばく)とした不安に胸苦しくなる。
 第3部は打って変わり、ボクシングの取材に来たアメリカの黒人記者のサンタテレサ滞在記となる。彼はこの街で猟奇的な連続女性殺人事件が起こっているのを聞きつける。続く第4部を文字通り埋め尽くすのはその死体だ。性器と肛門(こうもん)を凌辱(りょうじょく)されて殺され、砂漠や不法ゴミ捨て場に遺棄された女性たちのほとんどは、街の周囲に林立する巨大な下請け工場群で働くうら若く貧しい女工たちだ。長身のドイツ系アメリカ人が逮捕されるが殺人がやむ気配はない。
 そして第5部、ついに謎の男アルチンボルディの過去が、海の底に憧れていたのっぽの少年が、独ソ戦の敗走を経験し、放浪の作家となるまでが明らかになる。老年の作家が最後に向かう先は?
 全編に渡って死が、挿話や脱線が、次々と増殖する。心打たれる詩情と練り上げられた思弁が、それを相殺する俗悪さと陳腐さとまぐわいながら、小説をますます異形の怪物にする。美しいが随所に悲惨な戦争の記憶を抱えたヨーロッパの懐かしい風景と、グローバル化の縮図である殺伐としたボーダー地帯の暴力と貧困の日常に、そう、悲しみとしての世界に、巨大な砂漠の真ん中でひとり屹立(きつりつ)して対峙(たいじ)する突然変異。これと交わらない手はない。
    ◇
 野谷文昭、内田兆史、久野量一訳、白水社・6930円/Roberto Bola(nに〜〈チルダ〉付き)o 1953年生まれ、2003年没。作家。本書は著者の死から1年後に刊行された。10以上の言語に翻訳され、英語版で全米批評家協会賞を受けた。邦訳に『通話』『野生の探偵たち』など。